イングランドが時期のUEFA欧州選手権2008(ユーロ2008)に進めず、監督のスティーブ・マクラーレンを解雇したのですが、次期監督に、フース・ヒディンク氏にもコールがかかるのでは?
という噂がオランダで流れています。
当のヒディンク氏は「それはないでしょう。僕の監督したロシアがイングランドを破っちゃったのだし。」との答え。
フース・ヒディンク氏といえば、サッカーファンなら誰でも知っているオランダ人名監督。
1998年のフランスW杯では母国オランダを、2002年の日韓共同開催ワールドカップでは、韓国をベスト4に導き、「ヒディンクを次期日本監督に招けないものか??」と思った日本人も多いはず。
そして2006年のドイツ・ワールドカップではオーストラリア代表監督として、ベスト16にまで導きます。
その後、ロシア代表監督に就任して、EURO2008の予選では最後にイングランドを逆転して本大会出場に導いてしまいます。
もう、魔法使いの域ですね。
イングランドのコーチ、一体どうなるのでしょうね。
という噂がオランダで流れています。
当のヒディンク氏は「それはないでしょう。僕の監督したロシアがイングランドを破っちゃったのだし。」との答え。
フース・ヒディンク氏といえば、サッカーファンなら誰でも知っているオランダ人名監督。
1998年のフランスW杯では母国オランダを、2002年の日韓共同開催ワールドカップでは、韓国をベスト4に導き、「ヒディンクを次期日本監督に招けないものか??」と思った日本人も多いはず。
そして2006年のドイツ・ワールドカップではオーストラリア代表監督として、ベスト16にまで導きます。
その後、ロシア代表監督に就任して、EURO2008の予選では最後にイングランドを逆転して本大会出場に導いてしまいます。
もう、魔法使いの域ですね。
イングランドのコーチ、一体どうなるのでしょうね。
シンタクラースのオランダ到着「イントフト(De intocht)」

シンタクラース(赤い服の聖人)とお供のズワルト・ピート
オランダで、毎年12月5日はシンタクラースの日。シンタクラースの誕生日を祝う。
オランダ、及びベルギーのオランダ語圏では、子供達がシンタクラースという聖人からプレゼントを貰える日である。
シンタクラースは「セント・ニコラス」という、古来にトルコ方面のキリスト教圏に実在した司教が起源となっている。
貧しい子供達に施しをしたり、少女買春を縄抜けさせるために資金を負担したりなど、守護聖人として数々の伝説が残る。
少女の手切れ金を負担したという伝承から、子供達へプレゼントを配る、というイベントになったという説もある。
シンタクラースはスペインからお供のズワルト・ピートを連れて蒸気船でやってくる(ことになっている)。
シンタクラースの到着は毎年11月中旬。オランダ各地で到着パレードが行われる。
2007年のオフィシャル到着日は11月17日。アムステルダムは11月18日。
ユトレヒトのイントフトは何度か観たことあるが、今年は趣向を変えてアムステルダムのイントフトを見に行った。
★イントフト アムステルダム(De intocht Amsterdam)のスケジュール
10時半ごろ:アムステル港にシンタクラースとピートたちの船が到着。
アムステル駅から海洋博物館へ。
海洋博物館でアムステルダム市長の歓迎の挨拶
1時ごろ:
シンタクラースは白馬にのり、ピートたちは子供達にお菓子をくばりながら
にぎやかな楽団とともに、ダム広場やムント広場などを経由し、
ライツェ広場までパレードする。
2時半ごろ:ライツェ広場のStadsschouwburgのバルコニーから、
よい子たちとアムステルダム市民へ向けてシンタクラースの挨拶。
シンタクラースはスペインから来ることになっているので、
「1、2、3」の掛け声を「ウノ、ドス」と、スペイン語で叫ぶのも興味深い。
ピートは黒人のお供で、子供達にはシンタさんより、楽しいピートの方が人気がある。
またピートがお菓子を配る係りであるからだろう。
ピートのコスプレをする子供達も多い。
ピートがお菓子の詰まった麻袋を持って通りかかると
「ピート!ピート!」と子供達はお菓子をねだる。
参照:http://www.sintinamsterdam.nl/

シンタクラース(赤い服の聖人)とお供のズワルト・ピート
オランダで、毎年12月5日はシンタクラースの日。シンタクラースの誕生日を祝う。
オランダ、及びベルギーのオランダ語圏では、子供達がシンタクラースという聖人からプレゼントを貰える日である。
シンタクラースは「セント・ニコラス」という、古来にトルコ方面のキリスト教圏に実在した司教が起源となっている。
貧しい子供達に施しをしたり、少女買春を縄抜けさせるために資金を負担したりなど、守護聖人として数々の伝説が残る。
少女の手切れ金を負担したという伝承から、子供達へプレゼントを配る、というイベントになったという説もある。
シンタクラースはスペインからお供のズワルト・ピートを連れて蒸気船でやってくる(ことになっている)。
シンタクラースの到着は毎年11月中旬。オランダ各地で到着パレードが行われる。
2007年のオフィシャル到着日は11月17日。アムステルダムは11月18日。
ユトレヒトのイントフトは何度か観たことあるが、今年は趣向を変えてアムステルダムのイントフトを見に行った。
★イントフト アムステルダム(De intocht Amsterdam)のスケジュール
10時半ごろ:アムステル港にシンタクラースとピートたちの船が到着。
アムステル駅から海洋博物館へ。
海洋博物館でアムステルダム市長の歓迎の挨拶
1時ごろ:
シンタクラースは白馬にのり、ピートたちは子供達にお菓子をくばりながら
にぎやかな楽団とともに、ダム広場やムント広場などを経由し、
ライツェ広場までパレードする。
2時半ごろ:ライツェ広場のStadsschouwburgのバルコニーから、
よい子たちとアムステルダム市民へ向けてシンタクラースの挨拶。
シンタクラースはスペインから来ることになっているので、
「1、2、3」の掛け声を「ウノ、ドス」と、スペイン語で叫ぶのも興味深い。
ピートは黒人のお供で、子供達にはシンタさんより、楽しいピートの方が人気がある。
またピートがお菓子を配る係りであるからだろう。
ピートのコスプレをする子供達も多い。
ピートがお菓子の詰まった麻袋を持って通りかかると
「ピート!ピート!」と子供達はお菓子をねだる。
参照:http://www.sintinamsterdam.nl/
今年のオランダは本当に寒い。今日もセーターを着込んでいる。
そしてやはり秋冬特有の曇りと雨の繰り返し。
朝晴れていたと思い植木を日光に当てる為に外に出したとたん曇り出す。
困りものである。
本日は土曜日でユトレヒトの街は買い物客でごったがえしている。
カフェはどこも満員。夏の間はテラスがあるが、秋冬に寒くなるとテラスは撤去される。
そのためトータルの席数が減るのである。
おまけに雨で寒い。人々は買い物が襟に室内で暖をとる。
なので日中は席が取れない。しかし賑わう町並みを見るのは楽しいものである。
日曜の寂しい街よりは混雑でも市場の威勢のいい掛け声が飛び交う土曜日の方が私は好きだ。
そしてやはり秋冬特有の曇りと雨の繰り返し。
朝晴れていたと思い植木を日光に当てる為に外に出したとたん曇り出す。
困りものである。
本日は土曜日でユトレヒトの街は買い物客でごったがえしている。
カフェはどこも満員。夏の間はテラスがあるが、秋冬に寒くなるとテラスは撤去される。
そのためトータルの席数が減るのである。
おまけに雨で寒い。人々は買い物が襟に室内で暖をとる。
なので日中は席が取れない。しかし賑わう町並みを見るのは楽しいものである。
日曜の寂しい街よりは混雑でも市場の威勢のいい掛け声が飛び交う土曜日の方が私は好きだ。
昨日の嵐には驚いた。
その時オランダ語学校の夜間クラスにいたが、授業中に激しい風の音。
ガラス窓が音を立ててゆれ、日本人の私としては地震かと一瞬思った。
「授業はこれで終わりにしましょう」という先生の声を生徒一同で期待したが
「こんなの大したことはない。オランダでよくあることだ」と先生にあっさり言われる。
みんなガッカリ。
しかし授業が終わったころには雨は止んでいた。
いや。止んでいたというより一休止と言った方がいいかもしれない。
ニュースを見たらやはり島嶼部では洪水地域もあった。
イギリスでも浸水地域が出て、体育館で世を明かす市民のインタビューも。
こんな寒い時期に浸水や洪水なんて大変である。
みなさんが無事に家庭で暖を取れる日が早く訪れるといい。
その時オランダ語学校の夜間クラスにいたが、授業中に激しい風の音。
ガラス窓が音を立ててゆれ、日本人の私としては地震かと一瞬思った。
「授業はこれで終わりにしましょう」という先生の声を生徒一同で期待したが
「こんなの大したことはない。オランダでよくあることだ」と先生にあっさり言われる。
みんなガッカリ。
しかし授業が終わったころには雨は止んでいた。
いや。止んでいたというより一休止と言った方がいいかもしれない。
ニュースを見たらやはり島嶼部では洪水地域もあった。
イギリスでも浸水地域が出て、体育館で世を明かす市民のインタビューも。
こんな寒い時期に浸水や洪水なんて大変である。
みなさんが無事に家庭で暖を取れる日が早く訪れるといい。
いとうせいこうさんのブログの存在を知った。
readymade by いとうせいこう
http://ameblo.jp/seikoito/
アメーバブログは芸能人用のブログがあるが、せいこうさんは一般ブログで参加しているところがいいですね。
せいこうさんはビルマ問題に深く心を痛めている。
ブログの中でミャンマーに駐在する日本企業のリストについて書いてあった。
http://www.scdb.org/co.html
見覚えのある企業ばかり…。
海外進出のためには、現地の最有力政権と結びつくしかないのだろうけど
腑に落ちない。現地駐在の人も、不安定な政情の中で生活するのは大変だろうし。
ミャンマーに平和が訪れる事を切に願う。
ビルマ民主化支援会
Support Campaign for Democracy in Burma
http://www.scdb.org/index.html
ユーロ圏と世界の成長は依然として力強く推移=ECB総裁
2007年 10月 11日 19:39 JST
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-28303020071011
[モスクワ 11日 ロイター] 欧州中央銀行(ECB)のトリシェ総裁は11日、最近の金融市場のボラティリティにもかかわらず、ユーロ圏と世界の成長は依然として力強く推移している、との認識を示した。
ロシアとユーロ圏の中央銀行のセミナーに出席した後、ロシア中銀のイグナチェフ総裁との共同記者会見で語った。
トリシェ総裁は、市場参加者は為替市場で一方向のポジションを取ることのリスクを認識すべきだと述べ、為替に関するこれまでのコメントを繰り返した。
さらに「基本的なシナリオは、ユーロ圏では力強い成長が続き、成長率は潜在成長率前後で推移するというものだ。われわれは最終的な判断を下す前にさらに情報を集める必要がある」と語った。
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こんなにユーロって高くていいのだろうか?というのが正直な感想かも。
オランダではユーロ導入後、便乗値上げする店も目だった。
例えばスナックなんて実質1.5倍から2倍くらいの相場になったと思う。安いのはコーヒーやビールくらいかも。
日本の製品の方が良質で丁寧なケースが多いのに、実質安くなってしまうし。
日本で貯めたお金の価値が減ってしまうのは複雑な心境である。
しかも欧州でユーロ本格導入前は1ユーロ80円だったときもある。
それが今では160円台。
80円の時に買い占めておけば、今頃2倍に膨らんでいたのに><。
それが悔しい。
ルーの嫁 ルーの嫁と申します。米国CA州にてルーマニア人の夫と生活しております。実は10月22日(昨日)ヨーロッパ旅行から戻ってきたばかりです。お気に入りのユトレヒトをGoogleで検索したところこのHPにたどり着きました。ユトレヒト近郊に主人の従兄弟が住んでいる関係で今回オランダには3日ほど滞在しました。ユトレヒトは女性と子供がとても幸せそうにゆったりと暮らしている、そして流石にミッフィーの町だけあってこじんまりとお洒落な店が多いですよね。町も清潔でこんなところに住んでみたいと思わせる美しいたたずまいは忘れられません。これからユトレヒト懐かしく思う際にはこちらのHPを拝見させていただきます。まだ一部しか呼んでいませんが、素晴らしいHPですね!
長井さんが伝えたかったビルマの現状 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071009-00000000-mnj-int ミャンマーに平和が訪れるのはいつになるのだろうか? 大体、仏教国で僧侶に手を出すなんて、仏罰が当たるはずだ。 長井さんの死を悼むのなら、長井さんが伝えたかったことを 我々が目をそらさずに直視することである。 それが彼への供養になるはずだ。
ドイツ・バイエルン州に点在する、ルートヴィヒ2世の城、および縁の地のスライドです。
ニュンフェンブルグ城。
ホーエンシュワンガウ城。
リンダーホーフ城。
ノイシュヴァンシュタイン城。
ヘーレンキームゼー城。
ベルク城。
シュタルンゲルガー湖の十字架。
ミュンヘンのミヒャエル教会。
パバロッティ氏の葬儀、約5万人が別れ惜しむ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070909-00000874-reu-ent
9月8日、世界的なテノール歌手、故ルチアーノ・パバロッティ氏の葬儀がイタリア・モデナで行われた。
星がまた一つ落ちて行った。
生きた芸術が消えてしまうのは心が痛い。
世界中の
クラシック初心者達に、
オペラの楽しさを教えてくれ
芸術に触れるきっかけをくれた。
ものすごいファンというわけではないのだが
何だか切なくて涙が出た。
記憶に新しい、昨年のトリノ・オリンピックのパフォーマンス。
http://
他界する間際まで 芸術に生きていられるのは
ミューズの神々から与えられた
特権なのかもしれない。
パバロッティさんの御冥福をお祈りいたします。
AUTHOR: yuji takahashi
EMAIL: uz0531tao@gmail.com
URL: http://2ndlifestyle.blog.shinobi.jp/
IP: 125.2.54.93
DATE: 09/12/2007 16:54:14
初めまして。
Blogを楽しく拝見させていただきました。
私は、セカンドライフスタイルを運営しております
高橋と申します。
この度、私のBlogで海外生活されている方の
Blogを紹介させていただくことになりました。
私が勝手にBlog内で紹介しては失礼にあたると思い
あらかじめ許可をいただいてから
紹介したいと思い、ご連絡させていただきました。
私のメインサイトでありますセカンドライフスタイルとの
相互リンクも考えていますので
Blogをより多くの方が楽しまれる事と思います。
よろしければ、ぜひ紹介させていただければと存じます。
何卒、よろしくお願いいたします。
参考までに運営サイトがございますので
ご参考にしていただければと思います。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
メインサイト:セカンドライフスタイル
http://www.2nd-lifestyle.com/
海外生活者紹介Blog:http://blog.livedoor.jp/tao0531/?blog_id=2525177
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「何とこの世は空しいのだろう!
何と意地悪く、みじめな人間が多いのだろう!
彼らの生活は、平坦な日常の 狭い世界の中で回っている。
早くこの世を切り抜けてしまいたいものだ!」
18歳で即位し、その一年半後に敬愛するワーグナーに宛てた、
バイエルン王ルートヴィヒ2世の手紙である。
感受性の強い青年王は、世間の醜さに既に嫌気が差していた。
そしてこの内容は彼自身を象徴し、後の城建設の情熱をとく鍵となる。
ノイシュヴァンシュタイン城、リンダーホーフ城、ヘーレンキームゼー城など
現在はドイツ観光の目玉となっている、ルートヴィヒ2世の城。
19世紀の近世に建造されたにも関わらず、中世やロココの懐古ロマンに溢れる装飾。
城・・・王にとってそれは贅沢をする場所ではなく、
自分だけの美しい世界を創造し、その中に引き篭もるためのものという夢の砦であった。
王は妃も娶らず生涯独身で、ゲイ志向があったという。
そしてワーグナーオペラへの限りない情熱。
ノイシュヴァンシュタイン城の壁画は、ワーグナーのオペラのオンパレードだ。
ローエングリン、タンホイザー、パルジファル、マイスタージンガーなど、イメージの洪水である。
ワーグナーが好きな人には実に嬉しい城だ。
俗世間を見下ろす山の頂で、大好きなワーグナーのオペラのイメージに埋もれ、
自分の世界に引きこもって暮らしていた王の孤独が伺える。
城そのものがワーグナー芸術に捧げるオマージュであり、王自身が身をおきたい幻想の世界。
18歳当時は美の化身とまで言われた王は、42歳の晩年には「精神病」と診断され逮捕される。
翌日、幽閉先の城の付近の湖で侍医と一緒に水死体で発見される。
死因は現在も謎のままである。
夢の城を作り続け、俗世間を嫌い引き篭もり、ワーグナーを世に引き上げたパトロン。
そして最後に謎の死という王のミステリアスな人生に、現在も多くの人々の関心が集まる。
ルートヴィヒ2世 (Ludwig II. 1845年8月25日−1886年6月13日)は第4代バイエルン国王(在位:1864年 - 1886年)。
192cmの長身。若い頃は美貌に恵まれ「アドニス」と称される。
ルートヴィヒは父マクシミリアン2世とプロイセン王女のマリーとの間にニュンフェンブルク城で生を受ける。主に自然に囲まれた山上のホーエンシュワンガウ城で育ち、付近の湖に残る「白鳥の騎士・ローエングリン」伝説に心をときめかせた。
ホーエンシュワンガウ城にもローエングリン伝説の壁画が描かれている。
幼い頃からゲルマン神話や騎士伝説などに親しみ、後に彼に多大な影響を与えることになる。
そんなルートヴィヒが、16歳で初めてワーグナーのオペラ「ローエングリン」を観劇する。
以来ワーグナーへの傾倒が生涯続く。
1864年3月10日、父マクシミリアン2世が逝去。ルートヴィヒは18歳で王となる。
彼は王の仕事として、早速憧れの作曲家ワーグナーを宮廷に呼び招いた。
亡命生活と借金に追われ放蕩を続けていたワーグナーに光があたる。
ワーグナーを敬愛しワーグナーの作品の為ならどんな出資も厭わない王と
チャンスに乗るワーグナー。
そんな王とワーグナーの関係は世間や家臣たちの不評を呼び
結局、王は家臣の反対を受け入れ、1865年12月、ワーグナーを一時追放する。
普墺戦争の際には、戦争には同感できないのに王として署名せねばならず、
心の支えのワーグナーも体裁を考え追放せねばならなかった。
利発だが感受性の強いルートヴィヒには、政治の駆け引きなど耐え難いものだったのだろう。
王は徐々に執務を疎むようになり、ワーグナーのオペラの世界で埋め尽くされたノイシュヴァンシュタイン城の建設に着手する。
そしてルートヴィヒは王が王であったきらびやかな時代にも思いを馳せた。
それはフランス・ルイ14世の時代。
その思いをヴェルサイユ宮殿を模したヘレンキムゼー城、トリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城を建設へと導かれる。
王として人に命令したい、のではなく、王として誰にも指図されない。
それをルイ14世という絶対王政の中に夢見たのであろうか。
王はミュンヘンで執務に従事するよりも、それらの夢の城に篭ることの方が多くなっていく。
ルートヴィヒ2世は女性に興味が無くゲイ志向であったといわれる。
家臣のホルニヒ、舞台俳優など、美青年を好んだ。
と同時に、19世紀当時は男色が受け入れられるはずも無く、王は罪の意識にも悩み、城の各所には免罪符のように十字架や聖像が見受けられる。
そんな孤独な王にも、一人心を許していた女性がいた。
自分と同じヴィッテルスバッハ家で8歳年上の従姉のオーストリア皇后エリーザベト。
彼女もまた彼と同じく堅苦しい宮廷を疎んでいた。
ルートヴィヒは引き篭もることによって世俗から遠のき、エリーザベトは逆に行動的に旅をすることによって世俗を避けた。この二人は表れる形は異なれど同士であった。
お互いを「鳩」と「鷲」と呼び合い、生涯親交は続く。
そのエリーザベトの妹のゾフィーとルートヴィヒは婚約する。
ゾフィーは問題のない女性なのだが、ルートヴィヒは結局を彼女を、
いや女性を愛することが出来ず、接触を恐れ、ついに婚約を解消する。
1870年、普仏戦争で弟のオットー1世が精神に異常をきたしてしまう。
ルートヴィヒはますます現実から逃れ自分の世界に入り、昼夜の生活は逆転していく。
真夜中にシャンデリアは点される。食事も王は一人で取ることを好んだ。
召使はおろか人間自体に見られることにプレッシャーを感じるようになってしまったのだろうか。
テーブルは特殊な仕掛けでリフト式になっており、コースが終わるたび階下から上げ下げされる。
また人目のつかない夜中に、黄金のソリに乗って遠出するなどの奇行が目立つようになる。
そしてバイエルン経済の不振とは裏腹に豪華な城の建設に情熱を注ぐ。
危惧を感じた家臣たちはルートヴィヒの退位を決める。
ルートヴィヒ2世は精神病と診断され、1886年6月12日に逮捕。
ノイシュヴァンシュタイン城からベルク城へと送られる。
翌13日の午後4時ごろ王は、主治医で自分を精神病と診断したグッテン博士と供に散歩に出る。
そして夜半、シュタンベルク湖畔で医師の共に水死体となって発見される。
死因は未だ謎のままである。なぜなら王は水泳が得意だったからである。
また発見された場所も浅瀬で、溺死する場所には思えないというのが現在の通説である。
唯一の理解者エリーザベト皇后は
「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした。」と言ったという。
人々は彼を「狂王ルートヴィヒ」と呼んだ。
しかし彼は果たして本当に狂っていたのか?
「ああ、いやな世間を離れて、美しい世界にだけ生きていけたらいいのになあ」
誰もが心の底で思うことがある。王はそれを体現しただけなのかもしれない。
バイエルン経済を傾けたルートヴィヒ2世の城は、現在はドイツ屈指の収入源となっている。
しかし生前ルートヴィヒは
「私が死んだらこの城(ノイシュヴァンシュタイン城)を破壊せよ」と言い残したとのことである。
自分の夢の城は己とともに人目にさらしたくなかったのだろうか。
王の棺があるミヒャエル教会の廟までも、入場料2ユーロである。
世俗を疎み一人静かな場所で、美しいものだけに囲まれて暮らしていたかった王の城には、
世界各国からの観光客で行列が絶えない。
何と意地悪く、みじめな人間が多いのだろう!
彼らの生活は、平坦な日常の 狭い世界の中で回っている。
早くこの世を切り抜けてしまいたいものだ!」
18歳で即位し、その一年半後に敬愛するワーグナーに宛てた、
バイエルン王ルートヴィヒ2世の手紙である。
感受性の強い青年王は、世間の醜さに既に嫌気が差していた。
そしてこの内容は彼自身を象徴し、後の城建設の情熱をとく鍵となる。
ノイシュヴァンシュタイン城、リンダーホーフ城、ヘーレンキームゼー城など
現在はドイツ観光の目玉となっている、ルートヴィヒ2世の城。
19世紀の近世に建造されたにも関わらず、中世やロココの懐古ロマンに溢れる装飾。
城・・・王にとってそれは贅沢をする場所ではなく、
自分だけの美しい世界を創造し、その中に引き篭もるためのものという夢の砦であった。
王は妃も娶らず生涯独身で、ゲイ志向があったという。
そしてワーグナーオペラへの限りない情熱。
ノイシュヴァンシュタイン城の壁画は、ワーグナーのオペラのオンパレードだ。
ローエングリン、タンホイザー、パルジファル、マイスタージンガーなど、イメージの洪水である。
ワーグナーが好きな人には実に嬉しい城だ。
俗世間を見下ろす山の頂で、大好きなワーグナーのオペラのイメージに埋もれ、
自分の世界に引きこもって暮らしていた王の孤独が伺える。
城そのものがワーグナー芸術に捧げるオマージュであり、王自身が身をおきたい幻想の世界。
18歳当時は美の化身とまで言われた王は、42歳の晩年には「精神病」と診断され逮捕される。
翌日、幽閉先の城の付近の湖で侍医と一緒に水死体で発見される。
死因は現在も謎のままである。
夢の城を作り続け、俗世間を嫌い引き篭もり、ワーグナーを世に引き上げたパトロン。
そして最後に謎の死という王のミステリアスな人生に、現在も多くの人々の関心が集まる。
ルートヴィヒ2世 (Ludwig II. 1845年8月25日−1886年6月13日)は第4代バイエルン国王(在位:1864年 - 1886年)。
192cmの長身。若い頃は美貌に恵まれ「アドニス」と称される。
ルートヴィヒは父マクシミリアン2世とプロイセン王女のマリーとの間にニュンフェンブルク城で生を受ける。主に自然に囲まれた山上のホーエンシュワンガウ城で育ち、付近の湖に残る「白鳥の騎士・ローエングリン」伝説に心をときめかせた。
ホーエンシュワンガウ城にもローエングリン伝説の壁画が描かれている。
幼い頃からゲルマン神話や騎士伝説などに親しみ、後に彼に多大な影響を与えることになる。
そんなルートヴィヒが、16歳で初めてワーグナーのオペラ「ローエングリン」を観劇する。
以来ワーグナーへの傾倒が生涯続く。
1864年3月10日、父マクシミリアン2世が逝去。ルートヴィヒは18歳で王となる。
彼は王の仕事として、早速憧れの作曲家ワーグナーを宮廷に呼び招いた。
亡命生活と借金に追われ放蕩を続けていたワーグナーに光があたる。
ワーグナーを敬愛しワーグナーの作品の為ならどんな出資も厭わない王と
チャンスに乗るワーグナー。
そんな王とワーグナーの関係は世間や家臣たちの不評を呼び
結局、王は家臣の反対を受け入れ、1865年12月、ワーグナーを一時追放する。
普墺戦争の際には、戦争には同感できないのに王として署名せねばならず、
心の支えのワーグナーも体裁を考え追放せねばならなかった。
利発だが感受性の強いルートヴィヒには、政治の駆け引きなど耐え難いものだったのだろう。
王は徐々に執務を疎むようになり、ワーグナーのオペラの世界で埋め尽くされたノイシュヴァンシュタイン城の建設に着手する。
そしてルートヴィヒは王が王であったきらびやかな時代にも思いを馳せた。
それはフランス・ルイ14世の時代。
その思いをヴェルサイユ宮殿を模したヘレンキムゼー城、トリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城を建設へと導かれる。
王として人に命令したい、のではなく、王として誰にも指図されない。
それをルイ14世という絶対王政の中に夢見たのであろうか。
王はミュンヘンで執務に従事するよりも、それらの夢の城に篭ることの方が多くなっていく。
ルートヴィヒ2世は女性に興味が無くゲイ志向であったといわれる。
家臣のホルニヒ、舞台俳優など、美青年を好んだ。
と同時に、19世紀当時は男色が受け入れられるはずも無く、王は罪の意識にも悩み、城の各所には免罪符のように十字架や聖像が見受けられる。
そんな孤独な王にも、一人心を許していた女性がいた。
自分と同じヴィッテルスバッハ家で8歳年上の従姉のオーストリア皇后エリーザベト。
彼女もまた彼と同じく堅苦しい宮廷を疎んでいた。
ルートヴィヒは引き篭もることによって世俗から遠のき、エリーザベトは逆に行動的に旅をすることによって世俗を避けた。この二人は表れる形は異なれど同士であった。
お互いを「鳩」と「鷲」と呼び合い、生涯親交は続く。
そのエリーザベトの妹のゾフィーとルートヴィヒは婚約する。
ゾフィーは問題のない女性なのだが、ルートヴィヒは結局を彼女を、
いや女性を愛することが出来ず、接触を恐れ、ついに婚約を解消する。
1870年、普仏戦争で弟のオットー1世が精神に異常をきたしてしまう。
ルートヴィヒはますます現実から逃れ自分の世界に入り、昼夜の生活は逆転していく。
真夜中にシャンデリアは点される。食事も王は一人で取ることを好んだ。
召使はおろか人間自体に見られることにプレッシャーを感じるようになってしまったのだろうか。
テーブルは特殊な仕掛けでリフト式になっており、コースが終わるたび階下から上げ下げされる。
また人目のつかない夜中に、黄金のソリに乗って遠出するなどの奇行が目立つようになる。
そしてバイエルン経済の不振とは裏腹に豪華な城の建設に情熱を注ぐ。
危惧を感じた家臣たちはルートヴィヒの退位を決める。
ルートヴィヒ2世は精神病と診断され、1886年6月12日に逮捕。
ノイシュヴァンシュタイン城からベルク城へと送られる。
翌13日の午後4時ごろ王は、主治医で自分を精神病と診断したグッテン博士と供に散歩に出る。
そして夜半、シュタンベルク湖畔で医師の共に水死体となって発見される。
死因は未だ謎のままである。なぜなら王は水泳が得意だったからである。
また発見された場所も浅瀬で、溺死する場所には思えないというのが現在の通説である。
唯一の理解者エリーザベト皇后は
「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした。」と言ったという。
人々は彼を「狂王ルートヴィヒ」と呼んだ。
しかし彼は果たして本当に狂っていたのか?
「ああ、いやな世間を離れて、美しい世界にだけ生きていけたらいいのになあ」
誰もが心の底で思うことがある。王はそれを体現しただけなのかもしれない。
バイエルン経済を傾けたルートヴィヒ2世の城は、現在はドイツ屈指の収入源となっている。
しかし生前ルートヴィヒは
「私が死んだらこの城(ノイシュヴァンシュタイン城)を破壊せよ」と言い残したとのことである。
自分の夢の城は己とともに人目にさらしたくなかったのだろうか。
王の棺があるミヒャエル教会の廟までも、入場料2ユーロである。
世俗を疎み一人静かな場所で、美しいものだけに囲まれて暮らしていたかった王の城には、
世界各国からの観光客で行列が絶えない。
